ぐるり長島の旅 – 桑名から長良川河口堰 –

 木曽川から伊勢湾、そして長良川を遡り桑名までやってきて腹ごしらえ。はまぐり露店が連なる港町を散策して再び長良川へと漕ぎ出すと、長島の旅もいよいよ後半戦だ。

ゾエさんは、はまぐり屋のおやじさんと立ち話

” 水の城 ”桑名の姿

 ” 七里の渡し ”にて有名な桑名という名港が成立したのは、どうやら17世紀が始まってからのようだ。
 関ヶ原の戦いの勝利で戦国時代を終わらせた徳川 家康公の腹心、本多 忠勝公が桑名を治めた頃から、桑名が名実ともに東海道の重要な港町として産声を上げたのだ。

 海路でのランドマークであっただろう桑名城を現在見ることができないが、その外堀を巡ることができた。桑名城は、長良川(揖斐川と合流)河口の右岸に位置し、まさに” 水の城 ”と言われた桑名の姿を、累々と続く石垣や、その上に立つ家屋の奇妙な立地から垣間見ることができる。

通航、長良川河口堰

 桑名城の外堀に寄り道していると、潮流も上げ潮へと転流していた。その潮流に乗って長良川を遡上していく…流れに恵まれ良い塩梅のツーリングだ。

 遠くに大河を横断する巨大な構造物が見えてきた。
 長良川河口堰―――平成の世で作られた巨大な堰と閘門である。

 この建設の本来の目的は、1960年代に重工業化された一帯への工業用水の供給であったが、計画は紆余曲折し長期化した。すると、1990年代に竣工されるまで「開発」から「環境問題」へと世情は大きく動いていた。それにもかかわらず、強硬して建設をすすめる―――この事象は、まだまだ日本各地に火種として残っている。

 この河口堰建設の反対運動をカヌーイストたちが行っていた。私の愛読書『日本の川を旅する』の著者 野田 知佑氏も反対運動を行ったカヌーイストの1人だ。

 現在、川の本流で堰を設けていない川は、ほとんどないだろう。ただ、海の栄養源というものは、木々生い茂る山々から流れ出る一滴が集まり川を通して海へと流れる「森里海の連環」で供給されてきたのだ。そこを堰で分断すると海は枯渇し、そして海から遡河し命を紡いでいく生き物たちには死活問題だ。

 こうして、見事に日本は数十年で海が枯れてきた。この問題を予知して、反対運動を行ってきたカヌーイストたちは、常に環境の最前線にいるジャーナリストであったのだ。それは、今も変わらず紡いでいく意義がある。

 さて、反対運動も功を奏さず、完成してしまった長良川河口堰―――どうやら閘門があるので通航できるようだ。環境問題も重要だが、治水と利水を兼ねた閘門を設置したのは、建設側としての妥協であっただろう。その答えを難しく考える前に、全国の閘門を巡る” 閘門マニア ”として、生き生きと通航してみよう。

長島一周の旅

 長良川河口堰を” 堪能 ”した一行は、黙々と長良川を遡っていく。

河口付近の冬の楽しみは、枯れた葦の中を通り抜けることだ。この図のように、挟まってしまうこともしばしば

 こうして、船頭平閘門に戻ってくる頃には、時刻は16時に。30㎞と長い航程であったが、木曾三川という大河の河口で織りなす歴史や文化を堪能できる良いコースであった。ゾエさんの案内に感謝。

船頭平閘門に帰還

おわり