ぐるり長島の旅 – 河口の港町、桑名へ –
木曽川と共に長島の歴史を下る
船頭平閘門の扉(閘扉)が開くと、鵜たちが飛び去って行った。ここから木曽三川の東部を担当する木曽川だ。
針路を南へ向け、上流から河口へ向かう川の本流に乗り海を目指す。潮流も下げ潮なので、時速10㎞の高速ツーリングだ。
ここ長島の歴史を遡ると、長島一向一揆という出来事があった。
いまから450年前、戦乱の世を沈め天下統一を目標とした織田 信長公と、それに反する連合軍との戦の余波が、ここ長島にも及んでいた。
当時は、七つの島があり七島と呼ばれた長島では、浄土真宗(一向宗)の” 本丸 ”であった石山本願寺の末寺・願証寺があったが、ここの門徒が一斉蜂起した。
というのも、ここ願証寺は、織田 信長公のやり方に不服なメンバーの巣窟であり、その本部である石山本願寺が” 反織田 信長勢力 ”のリーダー格であったからだ。
統制された正攻法ではなく、突如として出現し湿地帯に消えゆくゲリラ戦法で、織田 信長公は数年にわたり苦戦を強いられたようだ。
しかし、石山本願寺の根城となった大坂(今の大阪)も、ここ長島も、大河の河口であり湿地が広がる、なんとも攻めにくい土地であっただろう。こういう場所を、海軍戦略では、チョークポイントと呼び、拠点設置に重要な場所だ。きっと、一向宗のリーダー達も、戦略に長けた人たちだったのではないか…
国道1号線と東海道
JRの関西本線、近鉄名古屋線の鉄橋、そして国道1号線が見えてきた。
国道1号線というと、日本橋を起点とし江戸時代に設定された東海道を完全に踏襲していると思われがちだが、いくつかの区間は新規のものだ。
まさに潜り抜けた国道1号線が、” 新規の東海道 ”として設定されたのは1873年の頃で、ようやく1933年に架橋されるまでは渡し船で木曽川を渡っていた。
では、それ以前、つまり江戸時代の東海道は何処を通っていたか…
それは、海路―――熱田神宮の近く「七里の渡し」から船で桑名を往復していたようだ。その距離が、七里(約27.5㎞)であったころから、七里の渡しと由来する。
面白いのは、潮位で” 七里 ”の航路が変化するということ。干潮では、浅瀬が多数出現するので、沖へ迂回せねばならず、その距離が十里と伸びた。
さらに、海路ということもあり、荒れたら通航できない。そのため、佐屋路という迂回路を作って、荒れやすい海路を避け陸路で木曽川の佐屋(ちょうど船頭平閘門付近)を目指し、川舟で桑名を目指した。
一言で東海道としても、様々なルートを設ける必要があった。それだけ、街道としての文化が成熟していったということだ。
伊勢湾から桑名へ
川の流れと歴史に身を委ねながら、快調に木曽川を下ると、伊勢湾へ繰り出した。
尾張大橋(国道1号線の架橋)を過ぎると、木曽川左右の堤が高く高く積み上げられていた。おそらく高潮への予防だろう。
北に大河と、南に大きな湾奥を備えた長島周辺を水に浸してきた歴史が見て取れる。
ここ周辺の水辺の歴史を眺めていくと、開口一番に「伊勢湾台風」の被害が挙げられる。
伊勢湾台風は、1959年9月下旬に日本列島を襲った台風で、台風災害としては第二次世界大戦後最大のものだ。
被害詳細は列挙しないが、この災害の教訓として災害対策基本法が生み出された。人間、大きな犠牲を伴わねば安全対策ができないというのは、いつになったら改善されるのだろうか…
東京の綾瀬川を旅したときにも感じたが、高くそびえる” 治水城塞 ”のせいで、陸域と水域が断絶しているため、何かあったときに陸に逃げることができない。これが、治水城塞の負のロジックだ。
孤立を感じたときに、改めて自然の中にいることを思い知る。潮が引き切った河口の浅瀬で、砂から貝が顔を覗かせていた。
桑名港で昼食を
木曽川から伊勢湾、そして再び大河にたどり着いた。
西隣の長良川―――船舶の往来に気を付けながら、大きな長良川の河口を西へと横断する。すると、桑名港が見えてきた。
案内役のゾエさんが手慣れた様子で漁港の端のスロープに上陸。ここから歩いて、桑名市はまぐりプラザで昼食を。
港町は、栄枯盛衰。古くから栄えた桑名も、明治時代に蒸気船が登場することで、隣町の四日市にその座を奪われた。
しかし、物流としての機能が廃れても、港町が育んできた食文化は衰えることがない。はまぐりプラザの戸を開けると、おばちゃんたちの活気ある声に励まされた。