江戸着陣 – 治水城壁の先へ –
東京は水害に備えた治水の城壁都市であった。それは、東京の入り口であるはずだった江戸川(三郷)から水旅し、身体で思い知らされてきたCanalistたち。治水城壁の先へ。上京の旅は最終章となるか
流れがあるってことは…
綾瀬川を堰き止めていたゴミ山たちを下流へと押し流し、ゴミ山を追う形で始まった綾瀬川の旅。
下げ潮(下流へと向かう潮流)と川の流れが相乗し、ぐんぐん進む。潮流の影響を受けるということは、つまり海と繋がっている(= 壁がない!)ということの証明だ。
今まで押し殺してきた思いと力が、ボードへと伝わり、みるみる江戸が近づいてきた。
小菅ジャンクションを潜ると、右手に水門が見えてきた。流れを掴みながら右折し、水門を潜ると、荒川放水路。東京治水のために作られた要となる親玉的水路である。
バカチンな三銃士
荒川放水路は、河岸が堆積物による砂岸が多く、上陸しやすい。ここで、昼休憩をとり、四苦八苦した前半の旅の疲れを癒す。
堀切橋周辺は、ドラマ『3年B組 金八先生』の舞台。土手を歩む人々を眺めると、「スタートライン(海援隊)」が流れてきそうだ。
「ちょうど良い。記念撮影タイム」
Canalistたち各々が使ってきたパドルを前に掲げる。なんだか『三銃士』のようじゃないか。
春のうららの…
さて、荒川放水路を東京湾まで下っていくと、葛西なのだが、行先は豊洲。つまり、もう少し西へ進むため近道をしたい。
堀切には、荒川放水路と隅田川が繋がる水路がある。
埼玉県を通り、東京都北区の赤羽から治水のために2つに分けられた荒川放水路と隅田川。それぞれの流れが再び近接する堀切にある水路。実は、もともと古綾瀬川という川があり、荒川放水路を生み出すときに上塗りされてしまったのだ。つまり、先ほどまで通ってきた綾瀬川→水門→堀切橋→堀切という流れが、古綾瀬川の名残なのだ。
細くなった水路に下げ潮が追い込まれていく。流れに乗り、隅田水門を抜け、東武伊勢崎線の架橋を漕がずに潜ると、治水城壁の内側にようやく侵入できたようだ。
見える河岸には、寒桜。まさに「春のうららの隅田川」へ
治水城壁の先は、東京砂漠
隅田川。浅草までは、警戒心低めで漕いでも楽しい旅路だ。ゆっくりと河岸を彩る桜たちを眺める花見ができる。
そういえば、花見の始まりは、江戸時代中期。
隅田川沿いに桜を植えることで、花見に訪れた江戸庶民が河岸を踏み固めることで治水効果としたことが始まりだそうな…
浅草を過ぎると、観光船が増えてきた。
船の針路にも気を付けなければならないが、船が生み出す引き波が隅田川の3面護岸に相乗し、四方八方から押し寄せてくるエンドレス。
3人の距離が徐々に開いてきてしまった。浅草橋を過ぎると、堅川へ抜ける水門があるのだが、たしか工事中で通れない。とはいえ、小休止するには、十分なスペース。体勢を立て直し、3人で東京の水景を眺める。
永代橋を抜けると、正確には隅田川から東京港へと変わる。しかし、三郷から始まったこの川旅は、寸断されながらも、ここ豊洲エリアへと繋がってきた。
大横川から豊洲運河へ。正面には芝浦工業大学の桟橋があり絶好のゴール場所だが、当時は未だ利用できていなかったので、近くの護岸に上陸。
河口の豊洲まで、うまく下げ潮に乗ってきだけあり、引き切った水位で上陸には手間取った。しかし、その辺は修羅場を潜り抜けてきたCanalistたちには、低い障壁である。
SUPボードを片付け、平井氏は近くの自宅へ。遠藤氏と糸井でSUPを担ぎ、東京メトロ有楽町線に乗り、帰路へと着く。別れのときだ。
栃木から始まった川旅は、ついに江戸の海までやってきた。治水という名の元に、旅人を阻む“現代の城壁都市”東京へ。川旅を共にしたCanalistたち各々の思いが、1つ昇華された旅路となった。これから自覚と責任をもって、新たな旅へ各々が突き進んでいく最初の1歩となったのだ。