伊豆諸島訪問記 – 霧中 –
霧に包まれる5日目
身支度を整え、石白川海水浴場をシーカヤックで発つ。
この日は、式根島から新島への島渡り。
海に出ると、ある物体に出会った。
それは、緩やかな西風に乗り、ここ式根島と北の新島との間を流れる海峡へゆっくりと 浸食してきた。
巨大な白い物体…霧だ。
海上にいると、様々な気象と遭遇する。その中で、霧というものは、航海する際に最も重要な視力を、ほとんど機能不全にさせるのである。
さて、困った。
式根島から新島を眺めながら熟慮するため、まずは野伏港を目指した。
徐々に新島の高い山々を呑み込み始めた霧を左手に見ながら、北部の野伏港へ入港。
ここ野伏港には、式根島観光協会がある。私の数年来の知人で観光協会事務局長の田村氏に、港奥のスロープを利用する許可をもらい、霧の様子を見た。
島渡り前のモヤモヤ
そもそも霧というものは、温度差により発生する。
この日の気温は高い。一方で、水温は冷水塊の影響で低い。このギャップにより、霧が発生した。
そして、風がないため、そう簡単に霧は晴れない。
神津島に3日間、私を閉じ込めた低気圧が去り、変わりに「移動性高気圧」という初夏特有の気圧配置となった。その高気圧のど真ん中のため、風が発生しないのだ。
濃霧のため視界は奪われているが、風がないので穏やかな海を渡ることができる。
この発想の転換で、私は濃霧の中、式根島から新島へ島渡りする決断をした。
今回の目的の1つであった新島東岸の“白ママ断層”への旅は、断念せざるをえない。
このまま、最短ルートで新島へと渡ることにした。
もっとも怖いのは、船舶の存在だ。濃霧の中、船舶と衝突すると重大な海難事故となり得る。
式根島へ出入港する定期航路が毎日就航しているため、まずは定期航路の船舶が式根島を出航するまで待った。
さて、お昼過ぎにカヤックも式根島を出航。
式根島観光協会のスタッフたちから不安そうに見送られ、霧迷路の中へ突入していった。
五里霧中
この四字熟語にふさわしいほど、視界は真っ白く閉ざされていた。50m先は何も見えない。
ただ、その意味と異なるのは、カヤックはまっすぐに新島へ進んでいる。私の心まで、霧は浸食できなかったのだ。
これは、きちんと「航行計画」を立てていたからだ。
あらかじめ式根島の野伏港から新島の鼻戸崎までの針路をコンパスと定規で計る。そして、この海峡を左から右へと流れ始めた潮流のスピードと向きを鑑みて、針路を潮の上流側へと向ける。
川でいうところの「フェリーグライド」である。
実際、カヤックの前方に取り付けたコンパスに頼り様子を見ていると、50~60°を目指しているにも関わらず、すぐ針路は90°へと逸れていった。その都度、針路を左へと修正。
薫る新島
真っ白の海峡の真ん中にいると、視覚以外の感覚が研ぎ澄まされていく。
何処かから船のエンジン音が聞こえた。定期船は去ったので、消去法で船舶を考えると、おそらく漁船のエンジン音だ。四方八方から聞こえる錯覚に陥るのは、人によってパニックを誘発するのかもしれない。
視覚と聴覚が霧に侵されていた頃、嗅覚は面白い感覚を得ていた。
花の香りだ。
式根島を発ち、霧迷路に入った頃は、潮の匂いを仄かに感じていたが、ふわりと香りが変わった。
花の香りを辿っていると、波の音と鳥のさえずりが聞こえる。
用心しながら、波の音を探っていくと、いきなり断崖絶壁が出現したのだ。
新島沿岸の鼻戸崎(はなとざき)に到着。
霧迷路の景色
さらに濃くなってきた霧の中を、丁寧に漕ぎ進めていく。
本来であれば、海抜200メートルもの絶壁が隣に見えるのであるが、頂上は全く確認できない状態だ。
漕ぎ進めていくと、突如として奇岩や生物たちが姿を現す。沖よりも岸沿いの方が、情景が変化するので楽しい。
右には、標高234メートルの石山があるはずだ。その名の通り、石でできた山なのだが、坑火石(こーかせき)というガラス繊維が多く含まれている奇岩に覆われている。
その坑火石を使用した「島おこし」が、新島では盛んだ。
青く美しいはずの間々下浦(まましたうら)を感じながら、正面に構造物が出現した。
鳥ヶ島(とりがしま)には、クレーン跡と船着場跡が残されている。
石山から切り出した坑火石を、ここ鳥ヶ島までロープで吊り下ろし、ここから船に載せて運搬する“物流基地”であったのだ。
霧はいつか晴れる
鳥ヶ島を過ぎると、新島の主要な港である黒根前浜。
伊豆諸島の各島での主要な港の呼び名は、ほとんどが前浜(まえはま)だ。
ここにカヤックで入港。ようやく霧が晴れてきた。
霧の日の夕陽は格別
先ほど、新島の歴史に少し触れたが、これは全て千葉大学の先生で、この新島の村議である木村先生から教わったことだ。
先生は、私のことを変わり者扱いするのだが、当人も同種である。
新島出身の木村先生は、坑火石の研究を自ら起業し実践。さらに石を使った「島おこし」を発信運営するという豪傑である。
毎度お世話になっている私だが、今回も先生に寝床を用意してもらった。ありがたい。
伊豆諸島名物の「べっこう寿司」で夕食を共にし、温泉で島のことを話す“島談義”
さて、天気はというと、晴れた霧は最高の夕景を私に見せてくれたのだ。
翌日は、移動性高気圧が離れ始める。つまり、また低気圧がやってくる予兆だ。
何処まで島渡りできるのか。そう焦らずに、この夕陽を堪能して眠りに就こう。