伊豆の水旅 1 – 半島を貫く狩野川をSUPで旅する –

伊豆半島―――大都市が連なる東京横浜に住まう人からすると、秘境の南国というイメージが強い。
三浦半島は京浜急行線で日帰りでも遊びに行け、1997年に開通した東京湾アクアラインのおかげで房総半島もアクセスしやすくなった。一方で広大な伊豆半島へ往復アクセスするには、それなりに準備が必要なので、日常からは少し遠い。今回は、その伊豆半島を貫く狩野川に焦点を当ててみる。
伊豆半島を支える狩野川の秘密
伊豆半島の海岸線を時計回りに大きく3つの地域へ分けると、熱海から下田まで伊豆急が走る比較的アクセスしやすい東伊豆地域と比べ、弓ヶ浜や石廊崎灯台があり断崖が続く南伊豆地域や、堂ヶ島や土肥などの温泉街がある西伊豆地域は電車でのアクセスができないため秘境のようだ。
この伊豆半島を南北へ貫くように狩野川が流れている。その狩野川沿いに伊豆縦貫道が整備されているため、昨今は狩野川沿いを基点として海岸沿いへアクセスする観光ルートが見出されてきているようだ。
2015年に旅をした伊豆諸島訪問紀にも記載したが、狩野川の「かの」は茂在 寅男氏(1914 – 2013)が研究した「軽野」、カヌー(かの)が語源とされる。つまり、造船に適した木々が生い茂る狩野川は古来から栄え、半島から伊豆諸島、そして半島から紀伊半島などの海のターミナルとして栄えたのだろう。
もちろん、伊豆半島を貫く動脈としても栄え、源流の天城山から北へと流れ、川沿いには湯ヶ島から修善寺と古くより湯治場があり、川端康成の小説『伊豆の踊子』としても有名な地域だ。さらに北へと流れると、鎌倉幕府の初代執権北条時政ゆかりの韮山には室町幕府の堀越公方の御所があり歴史的な拠点としても栄えた。そして函南から三島へ流れると西へと向かい、河口の沼津からは豊穣の駿河湾が控えている。
その狩野川を舞台に、3回に分けて旅するというのが、今回の旅の話である。
狩野川記念公園より妻と川旅
私の妻は西伊豆地域の土肥カヌークラブに所属しているため、そのアッシー(運転手)として共に伊豆半島を旅することが年に数回ある。海をカヤックで漕ぐというだけではなく、せっかくなので川を少し旅しよう…そんな提案をしたのは2022年の5月であった。
狩野川では6月より鮎釣りの解禁となるため、その前の季節を漕ぐほうがオススメ。釣り師とのバトルほど面倒なことはない。
狩野川記念公園をスタート地としたのは、その上流は岩肌が剥き出しの浅瀬が続き、妻をエスコートするには厳しい環境だから。天気だけでなく、妻の機嫌を鑑みることも同時に大切だ。
とはいえ、狩野川記念公園前も浅瀬が続き、離陸すぐも敏捷なコントロールが必要となった。

川の駅 函南までの歴史旅
城山を過ぎると、伊豆縦貫自動車道に架かる橋を潜る。すると長い浅瀬が続くのだが、川の中央にある中洲の左右どちらの流れを選択することとなった。左の小さな流れを選択、SUPボードは浅瀬の石にゴツゴツと当たりながら下流側へ抜けられた。釣り解禁となる6月より前の季節に下ると水田への注水で川の水位が下がる、さらに前の季節では水温が冷たすぎるので防水ウェアを着用する必要がある、と悩ましい季節である。
狩野川は国道136号線に地図上で最接近する。地図上に河川が道路と接近する場合、そこには必ずといって良い程カミソリのように迫り上がる高い護岸があり陸と川は断絶されるのだ。
この護岸と、その後に狩野川が分水される狩野川放水路が示すのは、奈良時代から続く水害の歴史である。20世紀中頃に発生した狩野川台風により甚大な被害が起こり、狩野川放水路が作られることとなった。放水路は狩野川本流の河口よりも南5km地点の江浦湾に流されることで狩野川下流域の人々の暮らしを守ることとなるのだが、放水路の影響を受けることとなった江浦湾の生態と暮らしはどうなったのか、少し調べてみたいものだ。
奇しくも放水路の起点となる狩野川左岸の江間は鎌倉幕府2代執権の北条 義時の故郷であり、その対岸の韮山には彼の父である時政(初代執権)の別邸がある。源 頼朝を支え共に助け合った父子は最後に対立することとなるのだが、狩野川の対岸に相対した父子は何を思ったのだろうか。目まぐるしい歴史の中に、狩野川は常にあった。

くねくねと北進する狩野川は、その流路を西へと向け、そして再び北進。すると、右岸には白く大きな階段護岸が出現する。川の駅 函南には道の駅も併設する人気スポットである。この日は、川の駅をゴールとして妻を駅で休ませる間に、上流に置いた車を電車で取りにいくのだ。妻の機嫌が良いうちに…
