鬼怒川120kmをSUPで旅する 7 – シン・利根川へのラストランも続く試練 –

 鬼怒川旅も最終日。関東鉄道の小絹駅近くを休憩地として予め設定しておいたのは、もしもの場合に電車で移動できることを検討しておいたからだ。

 旅のはじまりは気温‐2℃、いまや気温は20℃近くと当初の服装だと汗だくなので、支度を整える。ここを離陸すると、上陸地は現実的に皆無となるポイントオブノーリターン。いよいよ旅も終盤戦だ。

最後の堰を滑り越えて臨む鬼怒川ラストラン

 常総の市街地から鬼怒川の終わりとなる利根川への流入部までは、シン・利根川を作り上げる際に人口の運河で結節している。

 その結果、流量の強い利根川からの逆流が常総市街地まで遡上しないように、そして鬼怒川上流からの水圧から常総市街地を守るように、強力な堰が布陣していた。

 先頭を進む私は、堰の上流から眺めて堰の中央を進む流路を確認し、滑り降りる。陸路から迂回すると1つの堰に30分間の時間を要するが、滑り降りれば30秒間の短縮される。ただし、流路の途中に障害物でもあったら引っ掛かり、敢え無く命を落とす。川にある人工物は怖いが、リスクを天秤にかけながら常に決断を迫られるのが川の旅だ。

 

最後の堰を滑り越えて進む、さらば常総

シン・利根川開削で生まれた遺構

 最後の堰を越えて、ほとんど流れはなくなってきた鬼怒川は、突如として谷間を流れる。

 もともと台地があり、シン・利根川へ流すために台地を開削したのだ。鬼怒川は、その東の小貝川へ合流し東進し香取海へと注ぐのが本来の流れであるが、小貝川のゴールと分離してシン・利根川を完成させるのが江戸時代の利根川東遷事業であった。

開削された台地の中を漕ぎ進む

 漕いでいると、そそり立つ川岸に貝殻が埋め込まれている。いや、正確に表現すると、縄文海進で海だった土地に貝塚が以降で積層され、江戸時代の開削を経て再び地上に姿を現した結果だろう。

 開削部を抜けると、再び平野部へと鬼怒川は流れ込み、いよいよシン・利根川の河川敷の範疇へ入ってきた。

最後の試練は、シン・利根川の強風

 2日前の気温は0℃前後、この日の気温は20℃前後。こういった日は南からの暖かく強い風が吹き荒れる傾向が高い。鬼怒川が終わりを迎えるにつれ流れは無くなり、一方で正面からの強風に岸沿いで耐え忍びながら、一路シン・利根川へと差し掛かった。

 先頭を進む私は、「このあと全員散り散りになるから、次の橋の右岸で集合としましょう」と予告。

 シン・利根川へと入ると、強い南西風は我々の右側背を突き、一気に糸が切れた連凧のように全員が散り散りに…広大な川幅に逃げるところは限られているので、風下へ流れないようにコントロールしつつ風に対して真っ向勝負するしかない。各自の健闘を祈った。

 私が集合地点に示した常磐高速道路と首都圏新都市鉄道つくばエクスプレスの架橋の間で一同は互いの帰還を喜びあった。残り10km…ここから2つ先の橋がゴールとなるが、私は予め3人にゴールまでの道程を教えて先にゴールすることとした。鬼怒川沿いの駅近くに自家用車を予め駐車し、ゴール後の運搬用としておいたのだ。早くゴールして車を取りに往復し、全員が帰宅する標とするのが案内人の最後までの役目である。普段は真面目に漕ぐことはないが、ここぞとばかりに速度を上げ、時速8km/sというところか。競技に勝つばかりが練習ではない。仲間をフォローするための技術である。

帰宅ラッシュ前で空いている関東電鉄常総線のターミナル取手駅から

 独り汗だくで辿り着いた取手の川岸に機材を置き、取手駅から関東鉄道に飛び乗った車窓から鬼怒川の彼方に去る夕陽を眺めていた。そろそろ、みんな川岸にゴールする頃だろう。

鬼怒川旅120kmは、ほぼ北から南へと進むため緯度が低くなるのが天気から推察できた