鬼怒川SUP旅 – 2日目は交流の多い中流域へ –
真岡で宿泊したのは、コンテナを使ったホテル―――コロナ禍で流行ったタイプの宿泊施設だが、テレビも冷蔵庫もあり1泊するには十分快適だ。
昨晩SUP機材一式は鬼怒川の河原に置き宿まで徒歩でやってきたわけだが、着替えなど大荷物を抱えて2㎞の道中は極端に疲れる。ここはタクシーを呼んで「鬼怒川まで」と、タクシーの運転手も初めてのオーダーだったのではないか…
「川船は、夜明けの一番鶏が鳴くころ出帆して川を下った」と地元史(『下野の水路』)にあるが、2月末には寒すぎる時間なので、日の出に併せて準備を始める。
徐々に緩やか 徐々に漕ぐ気も…
2日目のスタート地点となる鬼怒大橋は、橋に対し平行に川が流れ、その橋脚に流れが当たり複雑な流れ方をしていた。
今回の旅路を3つに分けると、上流部の初日と中流域の2日目、そして下流域の3日目では、その流れの性質が異なってくる。下流に向かうほど流れは徐々に緩くなり、上流部で鍛えた動体視力のせいで物足りなさを感じてくるのが中流域からだ。
あの激しかった流れは何処に…徐々に漕ぐ気も失せてきた。
吉田河岸と石橋高校の取り組み
この鬼怒川旅の年、地元紙である下野新聞で面白い記事が掲載されていた。栃木県立石橋高等学校歴史研究部が、全国高等学校郷土研究発表大会で入賞したというもの―――取り上げたテーマが鬼怒川の物流についてだが、同記事によると江戸時代には鬼怒川と田川との間で水陸どちらも併用した物流網が成立し、東日本全体の物流網を支えていた…という話に夢が広がる。何よりも、沿川の地元の学生がそのロマンを語るのは、同郷の水旅の先輩として鼻が高い。
田川というのは、宇都宮市北西部から宇都宮まちなかを通り、その後は鬼怒川と並走するように西部を流れ茨城県との県境付近で合流する川のことだ。暴れ川というより用水路としての毛色が強く、鬼怒川と田川の間では用水路が無数に引かれ、穀倉地の景色が広がっている。ちょうど流れが緩やかになって退屈し始めた我々の現在地より、少し下流で合流予定。
合流部で交流を
砂ケ原(いさがはら)橋、大道泉橋を抜けると、広大な河川敷へと変貌し、徐々に川の流れは緩やかになっていく。河川敷には公園や散策路も増え、次の中島橋の右岸側では、バーベキューやデイキャンプなどで人々が賑わうようだ。
この右岸で、遠藤さん友人親子が待ち構え、360°カメラで記念撮影。
入り乱れる県境
ときに川は県境として古より機能してきた。英語で川を意味するriverの元となるラテン語では、同時にrival(ライバル)を意味する言葉となる。つまり川を境にライバルが常に発生し、場合によっては水利権や漁業権で血みどろの戦いが発生してきた。
特に大河と云われる鬼怒川でも然りなのだが、ここ栃木県小山市と茨城県筑西市の県境は鬼怒川に沿って設定されていない。陸路で川沿いを走ると、車から県境を越えるアナウンスが乱発され、やたらとうるさい。だらだらと入り乱れる県境の狭間を出入りしながら、川を南へと進む。