鬼怒川SUP旅 – 衣のように鬼のように 鬼怒川編スタート –

 川をSUPで旅する――――現代においてマイナーなことを続けていると、少しずつ仲間が増えてくるものだ。
 それは、ともに巴波川を下った遠藤 翼 氏でもあり、今回一緒に旅をする奥家 嘉代 氏でもある。

 奥家さんは、栃木県内でヨガのインストラクターをしている女性で、2019年に共に思川を旅して以来、一緒に川遊びをする友人でもある。日本には未だ数が少ないSUPヨガインストラクター(日本SUPヨガ協会)でもあり、遠藤さんが主催する思川でのSUPイベントでも活躍する、いわゆる二刀流だ。

 そんな彼女にSUP旅を提案したのは、2020年の暮れ。彼女の誕生日が晦日ということもあり、遠藤さんと一緒に極寒の鬼怒川で禊のように川遊びをして年を終える、ということを2020年から始めてきたが、この下流域の姿を見てみたい―――その思いは、栃木県生まれである3人の共通のアイデンティティとなっていたようだ。

左から遠藤氏、奥家氏、筆者の3名

栃木の大動脈 鬼怒川とは

 今回旅をする鬼怒川(きぬがわ)は、栃木県最西部の鬼怒沼から始まり栃木県北部を東進、宇都宮市の北部で南下を始め、現在の茨城県守谷市で利根川と合流している全長176㎞の大河である。

 本来は、栃木県(と群馬県)の古来の名前「毛野国」という名前から「毛野河」と呼ばれたこの大河の終わりは、今から400年前まで太平洋(現在の千葉県銚子市付近)であった。
 ところが、名君 徳川家康が江戸の都市計画にあたり、江戸を河口としていた利根川を「きぬがわ」方面へと差し替えて、鬼怒川の河口を利根川の河口にしたのだ。これを利根川東遷事業といい、おかげで江戸の街は洪水から守られて100万人都市として発展し、いまの東京へと引き継がれている。
 一方、「きぬがわ」を吞み込んだ”シン・利根川”の治水事業は江戸時代を通して難航。シン・利根川の下流域は、治水事業を行うたびに失敗。大都市を大きなエネルギーから守るために、他の地域が被害を受ける―――これは、原発問題や産業廃棄物処理の問題など現代も同じ課題を抱えているのか。

 ところで、「毛野河」から表現された「きぬがわ」は、平安時代から衣川と称されたが、明治時代に入り鬼怒川と標記され現在に至る。衣から鬼怒となったのには、この治水事業の余波が関係しているのではないだろうか。

 まさに鬼が怒るような大河は、たびたび氾濫を起こしてきた。昨今では、2015年9月9日に起こった豪雨による鬼怒川の越流は記憶に新しい。茨城県常総市での鬼怒川の越流は、雨上がりの下流域と未だ豪雨に見舞われている上流域からの「増水の時差」により、避難が遅れたことが原因とある。あの水害から5年と少し、いまなら旅しても良いのではないか。
 
 こうして、2021年2月27日朝、3人の旅人は鬼怒川に集まった。

風花舞う鬼怒川旅1日目

 塩野室運動公園(栃木県日光市)に朝6時集合。気温は氷点下2℃と、寒さで凍え鼻水を拭いながら準備を進める。

正面から朝日に照らされ、背後に男体山を見ながら離陸

 現在地点で標高220mあり、背後の山々は雪を抱えている。晴天の中、雪がちらついてきた。風花(地吹雪)という現象、相当に風が強いようだ。

 今回の航程120㎞を、事前に遠藤さんが3日と設定したため、1日ごとにリーダーを交代する形でチームを進めていくことにした。
 初日は、奥家さん。
 どんな采配が下るのかと思いきや「お昼に岡本到着!」―――単純明快、以上である。
 岡本とは、21.5㎞先にある岡本頭首工であるが、昼(正午?)に到着ならば、初日の着陸予定となる栃木県真岡市までたどり着くのは現実的であろう。

 ところが、そう簡単には行かなかった。鬼怒川の本性が徐々に垣間見えてきた。

ひとつ曲がり角 ひとつ間違えて 迷い道くねくね

 漕ぎ出して、すぐ別れ道。細い方を選んでしまうのは、旅人の性なのだろうか。

 細く流速ある川を下る…嬉々として探検隊のように浮かれていると、幾つかの堰が現れた。おそらく、鬼怒川へ流入してくる支川への警戒のため小さな治水事業が展開されているようだが、その先見隊に阻まれて、最初のポーテージへ。

 冬季から早春にかけて、川の水位が大きく下がり、浅瀬が多くなる。川が細くなり瀬という流れが速い中へ入ると、浅瀬に引っかかり転倒する恐れがあるので、フィンを外してボードに座った状態でパドリングし、流速だけに頼りながら下っていく。成されるがまま…先が思いやられる。上空を眺めると、ハクチョウが優雅に北を目指していた。

旅の冒頭は岩とコンクリートだらけ。下流側から見ると岩場や浅瀬が確認できるのでルートが分かるが、上流から判断するのが毎度難儀なものだ